有弓休暇(38)

 いやーぁ、「同志社高校アーチェリー部OB・OG会」なる催し(?)に参加してきました。みんな知らん間に、ええオッサンになってました。。。 が、それはともかくとして。
 頭の中には今でもあの射ち方がそのまま甦るので、アルバムにも写真があるものと思って探したのですが、、、思ったあたりにはなく、弓を始めた1969年の第1冊目の中に1枚見つかりました。
 これを見て誰か分かる人は、↓ よっぽどの物好きか、オッサンなんでしょうが・・・。分かりますか?
 1971年4月と写真の裏に書いていました。今は場所が変わりましたが、昔の同志社高校レンジで50mを練習する、「塚本耕二」さんです。当時はこんな感じでコソッとしか見ることができなかった、凄い人です。塚本さんの何が凄いかというと、1968年の全日本チャンピオンというだけではありません。
 その前に、今の塚本さんと奥様です。近況も知らず、何10年かぶりの再会です。実は塚本さんは同志社高校アーチェリー部の大先輩にも当たるのです。が、何が凄いかというと。
 1968年全日本は「ノークリッカー」最後のタイトルなのです。塚本さんといえばノークリッカーの王者でした。ちなみに、世界で最後のノークリッカーチャンピオンは、1967年オランダ、アマースフォート世界選手権優勝のレイ・ロジャースです。今でこそ当たり前の、「魔法の板」がこの頃一気に世界で日の目を見たのがわかります。実際にその板を初めて日本人が見たのは、1963年のヘルシンキ世界選手権だったようです。
 1968(昭和43)年11月2・3日、東京駒沢第一球技場。同志社大学4年、1136点で優勝です。当時はまだFITAシングルラウンドを2日間で行っていた時代です。FITAダブルになるのが1971年からです。
 素材が変わり、道具が変わり、ルールも変わってしまうと一概に点数の比較はできなくなります。木のワンピースボウで、アルミの矢で、ダクロンストリングで、2本スタビで、そしてノークリッカーで「1136点」。しかし、これだけは言えます。カーボンアローがなくても、テイクダウンボウがなくても、伸びないストリングがなくても、スタビライザーがなくても、アーチェリーをする自信はあります。ところがクリッカーを禁止されたなら、続ける勇気も根性も、希望さえもなくすでしょう。
 もっと分かりやすくいえば、今のアーチャーが今の道具でクリッカーだけを取り外せば、1300点も出なければ、今でも1100点が出ないアーチャーがいっぱいいるはずです。それほどまでにこの魔法の板は大発明なのです。カーボンアローなど足元にも及ばない、アーチェリー界のノーベル賞モノです。
 そんな卑怯な道具を使わず勝ち続け、最後まで正々堂々とクリッカーと戦った最後のアーチャーが、塚本さんなのです。感激です、今会えたことが、そしてお元気なことが。この栄光は語り継がれるべきです。
 
 ところで、今回の催しは来る2015年に栄光の同志社高校アーチェリー部が「創部50周年」を迎えるための、最初の一歩でした。クラブが部に昇格したのが1965(昭和40)年。東京オリンピックの翌年ですが、同好会として活動を始めたのは1961年か62年から。そんな古い高校のクラブはありますか。塚本さんは1964年度卒業です。小生がアーチェリーを始めたのが1969年、卒業が1971年度。
 それより前の出来事と知らないオッサンばかりでしたが、、、本当に、楽しい時間とたくさんの栄光、そして素晴らしい青春を、ありがとうございました。皆さん、元気で50周年を迎えましょう!!

copyright (c) 2011 @‐rchery.com  All Rights Reserved.
I love Archery