有弓休暇(4)

 「Citation」。アメリカの軍隊用語で、功績のあった軍人の名前を公報の中などに特記することを意味する言葉です。
 今調べてみると、平成になってヤマハが出願して商標登録が認められていますが、当時はあのロッキード事件などで有名な国際興行社主 小佐野賢治さんが所有する商標でした。それをヤマハがアーチェリーのために毎年お金を払って、使わせてもらっていたのです。ヤマハの社長 川上源一さんがこの名前にしなさい、と言ったからです。
 名前と同時に、弓の精度を1%上げれば1440点の1%14点の記録向上が望める。日本人が日本の弓で世界一になるための道具を作りなさい。鶴の一声でした。

 1974年からだと思います。ヤマハアーチェリーのトップモデルであると同時に最先端技術、素材のテストやデモンストレーションをするためのプロトタイプは、ここから始まったのです。「Ytsl」にも「YtslU」にも「EX」にも、「Citation」はあるのです。
 1972年、HOYTが初のテイクダウンプロトタイプ「T/D 1」で世界を制覇してから、世界がテイクダウンに変わるのにそう時間は掛かりませんでした。それに呼応するように、ヤマハも競技用最高モデルの「Ytsl」を1974年にリリースします。その開発、改良の先端実験場が「Citation」となるのです。「Citation」はその後1976年から、受注生産の限定モデルとして一般にも販売されます。希望者は神奈川県日吉のヤマハ家具センター2階に作られた、サイテーションルームでシューティングマシンと共に実射や測定を行ったうえで、自分だけの弓を作ってもらうのです。当時で¥120,000の完全カスタムモデルです。しかしそれでも、「Citation」という実験場で確認されたモデルにしかすぎませんでした。
 これ以前にもプロトタイプは存在します。それらはすべて「YX」と呼ばれていました。この「YX」は1973年のモデル、ヤマハ最後の(実際には限定モデル「Custom」がありましたが)ワンピースボウ「Ysl」のプロトタイプです。軽量化のために軽いメイプル(楓)材を使い、ビルトインダンパーも金属から樹脂製に変更されます。
 
 1976年、HOYT「T/D 2」を使っていました。それまで何度かテストは頼まれましたが、試合で使う気はありませんでした。HOYTが世界最高峰の弓だったのです。そんな社会人1年生の年、「黄色い弓なら練習でなら射ってみてあげてもいいですよ。」と言いました。翌週、電話がありました。ほかにリクエストはと言うので、「ハンドル左面にウエイトをつける穴が欲しい。」と言いました。(まだスタビライザーは4本以内の制限がある時代です。) 翌日、新幹線で京都駅まで持ってきてくれました。
 本気ではなかったのに、一週間で1320点を含むすべての距離別自己新を更新しました。練習で1300を切ることはありませんでした。日本記録が一年前に更新した1262点、そしてこの年にも更新した1284点の時代にです。世界記録はダレル・ペイスの1316点。後にヤマハに入って、現場の連中に聞きました。このリムが特別の仕様であることやすべての生産ラインを止め、一週間で弓を作ったという伝説です。
 黄色い弓をあえて使わなかった世界選手権が2度あります。白い弓は1977年キャンベラで個人2位になった時のものです。大会前の沖縄合宿で雑談の中、日の丸の弓でやろうということになりました。HOYTを使う道永も含め全員で、白に赤の弓にしたのです。しかしこの大会、世界の頂点に立ったのはオレンジ色の Ytsl でしたが、使ったのはアメリカのリック・マッキニーでした。ヤマハが唯一なし得なかったのは、日本人がヤマハでそこに立つことだけです。もう永久にありません。
 この「Citation」のグリップは後にダレル・ペイスが真似ますが、HOYTとして商品化はしません。自分のグリップに削って、上から塗装する一体成型グリップです。特別仕様はそれだけではありません。ウインドウのレスト部分を削ってアロークリアランスを広くとっていますが、それ以外にウインドウ全体も薄くすることでどんな状態でもピンが見易くなっています。
 そして何よりも特別はリムの構成です。当時のカーボンリムはリカーブ部分のスナップを効かせるために、剣先と呼ぶカーボンシートを別にリム先端部分に入れていました。これが市販品では10センチだったのに対し、必ずここだけは12センチを使っていました。
 ところで勘違いしてもらっては困るのは、現在のカーボンアローと違って当時はアルミアローの時代です。今のように矢が勝手に飛んでくれる、弓の形をしているだけの弓を使っても平気な時代ではありません。90mから重い矢で外的影響を排して、より安定と的中を求めようとするにはシューティング技術に加えて弓の性能を最大限高め、発揮することが不可欠だったのです。288射4日間をアウトドアで戦う時代です。ましてや非力で体格の劣る日本選手が世界で勝つには、ヤマハの発想と存在ほど大きなアドバンテージはありません。
 例えば最近ではなぜか、160センチにも満たない女の子や26インチもない矢であっても平気で66インチの弓を使わせます。28インチもないのに68インチの弓を使うのも同様ですが、そんなことが良いか悪いかは別にしてそれができるのはカーボンアローのお陰であり、矢が飛んでくれるからにほかなりません。もしアルミアローならサイトが取れないばかりか、少しの風で矢は的にも乗らないでしょう。
 あの時代HOYTもヤマハもハンドルの基準は「24インチ」でした。後に現在のユニバーサルモデルとなる25インチハンドルは、HOYTが矢の初速でヤマハに追い付けないハンディを小手先で克服する苦肉の策なのですが、ともかくそれまではどのメーカーも24インチハンドル(全体で66インチ)がスタンダードでした。
 では68インチの弓はどうするか、という時。HOYTはリムを長くして24インチハンドルで68インチも70インチも対応したのです。これは体格の大きいアメリカやヨーロッパの市場を考えれば、当然と言えば当然です。しかしそんな弓を使ったのでは、リーチの短い日本人はリムが最適なしなりを得ることが出来ず、弓本来の性能を100%発揮することはできません。そこでヤマハは考えました。ハンドルを2タイプ作ったのです。24インチのハンドルに対して2インチ長い26インチロングハンドルをあえて金型やコストを無視して開発したのです。同じリムを使ってハンドルを長くすることで、リムのたわみの大きい68インチの弓を作ったのです。
 日本人の体格や技術に合わせた基本設計であり、弓作りです。
 「日本人が日本の弓を使って、世界の頂点に立つ。」 その本当の意味を、もう一度考えてもいいのではありませんか。今のような時代だからこそ。

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