HOYT と YAMAHA 

 誰がなんと言おうとも、世界のリカーブボウをリードし作ってきたのはこのふたつのメーカーであり、ブランドです。

 世界の名器 「HOYT」 。1960年代、Bear、Browning、BenPerson、Wing、York等の数々のボウメーカーがひしめく中、すでに HOYT は RECORD HOLDER の名を思いのままにしていました。日本が初めて参加した1967年アマースフォート世界選手権 レイ・ロジャース、1969年バレーフォージ世界選手権 ハーディー・ワード、1971年ヨーク世界選手権 ジョン・ウィリアムス、1975年インターラーケン世界選手権 ダレル・ペイス ・・・・・ と伝説のアーチャーたちはすべて HOYT を手に世界記録とともに世界の頂点に立ってきました。木製ワンピースボウのころの「4PM」 と呼ばれた「プロメダリスト」、テイクダウンボウになって最初の市販モデル「TD2」、そして近年の「GM」 「Radian」 「Avalon」。

 しかし、Mr.Earl Hoyt Jr.の手によって一本一本丹精に作られた 「HOYT」 ブランドにも実は大きな転機があったことを忘れてはなりません。1983年当時 HOYT はシャフトメーカーであるEASTON社に買収され「HOYT/EASTON」社となった時期があります。現在のEASTONの「世界戦略」の第一歩です。今でも古い「GM」モデルのサイド面にはこの 「HOYT/EASTON」 の名残を見ることができます。しかし、数年で EASTON は再び HOYT を別会社としたのです。Mr.Jim Easton がとったこの戦法こそが、今のアーチェリーの世界を考える重要なポイントとなります。なぜ、あえて 「HOYT/EASTON」 の名を捨てたのか。それは、当時ヤマハがEASTON製アルミシャフトを輸入していたなどの関係から、販路を確保する意味合いがあったのも事実です。弓メーカーであるヤマハがライバル会社から矢を仕入れることへの抵抗感です。しかし、Mr.Eastonの最大の目的は「ヤマハを潰さない」ことにあったのです。とは言っても年商3881億円のヤマハが本当に潰れるわけはありません。問題はその年商の1%にも満たないアーチェリー部門(スポーツ全体でも63億円 1.6%です)からヤマハが撤退することを何としても阻止したかったのです。EASTON社の世界戦略において、ヤマハこそが不可欠の存在と考えたのです。その状況は今も変わっていません。なぜ、ここにきてF.I.T.A.(世界アーチェリー連盟)の会長となったMr.Eastonがスキーイングアーチェリーや3D、そして何よりもあれほど反発していたコンパウンドボウをターゲット部門の傘下に置き、将来的にはオリンピック競技にまで取り入れようとしているのか。 それはリカーブボウの視点から見た時のアーチェリー競技の低迷です。例えばオリンピックでアーチェリー競技が陸上競技や水泳のように毎回の大会で実施されるには、世界の100カ国以上の国が競技団体を持っていることがひとつの条件となります。しかし、アーチェリーは残念なことにまだその条件を満たしていません。幸いにして1972年ミュンヘン大会以来、アーチェリー先進国あるいは強豪国といえる国でオリンピックが開催されてきたことが救いとなっています。
 では、なぜヤマハがEASTON社にとって、そして世界のアーチェリーにとって必要な存在となるのか。それは、EASTON自身も100%のシェアを求めながらも、その寡占状態が生み出す弊害と自らの限界を知っているのです。ヤマハの力とパートナーシップこそがよりアーチェリーを発展させ、世界に広げていく最良の方法と考えているのです。ヤマハほどの規模と資金力、そして何よりもアーチェリーに対する情熱とノウハウを持つ企業はアーチェリーの世界において他にはみつかりません。
  HOYT ヤマハ  
1972年ミュンヘンオリンピック T/D1   初めてのTake-Down
1975年インターラーケン世界大会 T/D2 Ytsl ヤマハ参戦
1976年モントリオールオリンピック T/D2 Ytsl  
1977年キャンベラ世界大会 T/D2 Ytsl ヤマハ初めて世界制覇
1979年ベルリン世界大会 T/D3 Ytsl U HOYTポンド調整機能搭載
1982年ラスベガスシュート T/D3 EX  
1983年ロサンゼルス世界大会 GM EX EASTONがHOYTを買収
1985年ソウル世界大会 GM EX α ヤマハ ポンド調整機能搭載
1987年   Eolla  
 1972年、初めてHOYTがマグネシュームダイキャスト製法によるテイクダウンボウをオリンピックでデビューさせ、世界記録とともにゴールドメダルを獲得することでそれまでの木製ワンピースボウから一気に時代は「テイクダウン」へと変わりました。1975年ヤマハがこのリカーブ部門に参戦してからは、世界のアーチェリーはこの2社の技術開発とそれに伴う選手対策によって高得点へと導かれていきます。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。
 ヤマハの開発コンセプトの基本にあるものは 、「日本人の手によって世界を制覇する」 というものです。このもと1975年、「Forged」 「Eolla」 「EX」 すべてのヤマハボウの基本仕様となる 「Ytsl」 が発表されました。ここで特徴的だったのはそれまで HOYT をはじめとするテイクダウンハンドルのスタンダード(基本形)とされていた 「24インチ」 ハンドル( 現在「ショートハンドル」と呼ばれているもの ) に加えて、ヤマハが唯一 「26インチ」 ハンドルを世に出したことです。このメリットは同じボウレングス(弓の全長)ならアメリカ製の弓より、リムの長さを短くして組み合わせられる点です。
 日本人の体格差を考慮して、同じリーチ(矢の長さ)であればリムのたわみをしっかりとり、より効率良く弓のエネルギーを矢に伝えることで体格・ポンド数で優る外国人選手に対抗しようというものでした。これが功を奏して1977年キャンベラ世界選手権では男子1位・2位、女子1位のタイトルを獲得。その後も破竹の勢いで世界を制していったのです。1983年、「EX Cusom」 カーボンリムで世界をリードするヤマハに成すすべがなかった HOYT が出した切り札が 「GM(Gold Medal)」 でした。リムの性能で優位に立てないHOYT が考えついたのは 「25インチ」 ハンドルという、イレギュラーなハンドルとその組み合わせでした。これには理由があります。リム単体ではヤマハの矢速に追いつかないため、66インチの組み合わせの時に短いリムによってそのたわみを大きくしたのです。ヤマハとの中間を狙ったわけです。( しかし、この仕様をRadianにまで引きずったことは関心できません ) それはそれで良かったのですが、ところが1980年代後半にカーボンアローが出現することで形勢が変わりました。
YAMAHA     HOYT
ハンドル リム 弓の長さ   ハンドル リム
24インチ 40インチ 64インチ 23インチ 41インチ
24インチ 42インチ 66インチ 25インチ 41インチ
26インチ 42インチ 68インチ 25インチ 43インチ
26インチ 44インチ 70インチ 25インチ 45インチ
 カーボンアローはそれ自体が持つパフォーマンスによって、弓に求める性能が大きく変化したのです。それまでは重いアルミ矢を弓が飛ばさなければならなかったため、リムのたわみと性能が不可欠でした。ところが、カーボンアローはそれ自体が高スピードで飛んでしまうため、弓に求める性能の第一は 「安定」 になりました。このことはヤマハ、そしてそれに追随してきたHOYT の目指したものからの方向転換です。ヤマハはEXからEollaにモデルチェンジする1987年、ハンドルとリムの接合(差し込み)角度を1°寝かせる方に仕様変更しています。これなどがカーボンアローへの対応のひとつの例でしょう。そして今回 Forged で26インチのロングハンドルをなくしたのには、訳があると同時に正しい判断と考えます。

 このように2社の切磋琢磨によって、世界のアーチェリーは発展してきました。
 ところがここに来て状況が変化しています。Mr.Hoyt が始めた丹精込めた 「HOYT」 もEASTONによる買収によって、大企業の量産ラインに組み入れられたことは最近のHOYT にトラブルが多く品質の低下が目立つことは考えると残念でなりません。また、日本メーカーであるニシザワアーチェリーの撤退後、世界を代表する世界のYAMAHAに元気がないのも気になります。
 しかし、どちらにしてもHOYT とYAMAHA が今後も世界をリードし続けることこそが、リカーブの世界において重要な要素となることでしょう。

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