ヘタクソになったことの一考察

 毎年4月には新人がクラブに入ってきて、初心者指導が始まります。そして夏になるとそんな初心者たちもマイボウを手にして、早い者は30mを一人前に射つようになります。そんな場面を思い出してほしいのですが、一生懸命練習してそこに至った彼らですが、それより数ヶ月前には20ポンドや20数ポンドの練習用の備品の弓で近射や巻きわらを射っていたはずです。
 その段階では教える側、そして教えられる彼らは何を考えていたでしょう? 多分、「この弓では30mは飛ばないし、早く37ポンドのマイボウを使えるように・・・」とパワーアップとその基礎となるフォームの習得や安定を目指し、練習に励んでいたのではありませんか。
 ここが非常に大事なところです。20ポンドの弓ではいくらがんばっても、30mは飛ばないし、それで試合に出ることはありえないはずです。だからこそ強い弓が引けるパワーとそれを使いこなす技術を身に付けるべく、1回でも多く弓を引きトレーニングをし、努力を重ねてきたのです。
 
 ではちょっと昔話です。1990年代に入るまで、ほとんどすべてのアーチャーにとって「カーボンアロー」は未知の存在でした。1980年代まではアルミアローこそがすべてであり、同時に競技用アローでもありました。そんな時代、少しローカルなオールラウンドの試合に行くと、風が吹いたり雨でも降ろうものなら矢は簡単に的を外し、90mが飛ばない(サイトがとれない)アーチャーがいるのです。そんなアーチャーは当然事前にエクステンションバーを短くしたり軽いシャフトを使ったりと、それなりの努力はしているのですが、それでも天候によってはエイムオフを余儀なくさせられる場面があったものです。
 そしてもう少し昔。1970年代前半なら、すべての努力を駆使しても90mは的の上の旗を狙うとか、的の上の雲を狙って射ったという笑い話のような現実もあったようです。
 この写真を懐かしいと思うアーチャーもいるでしょう。
 1972年、ミュンヘンオリンピックで圧倒的世界新でゴールドメダルを獲得した時の、ジョン・C・ウィリアムス(USA)の90mです。
 そしてこれは1973年、プロに転向。翌1974年3月初来日、東京、大阪でその素晴らしフォームを日本のアーチャーに披露してくれた時のものです。31インチを超える矢で90mを狙う姿です。美しさはさておき、今この発射角度で矢を射てば多分120mでも競技ができるでしょう。逆に言えば、当時の70mの発射角度が今の90mです。
 
 しかし考えてみれば、初心者が30mを射てるように努力するのと同じで、非力な日本人がウィリアムスに、そして体格と体力に勝る欧米のアーチャーに勝つために90mを完全に射程に収めるためには、多くのものを克服する多大な努力があったのです。
 技術的には世界一美しいフォームと呼ばれる日本選手であり、道具的にはカーボンリム、ケブラーストリングをはじめとする多くの日本人の発明がありました。それでも及ばないからこそ、表示ポンドで45を超え実質50ポンドの弓を引きこなすための練習量とトレーニングがありました。
 その結果、日本は1970年代後半から80年代前半に掛けて、世界の頂点を目前にできたのです。
 ところが1984年のA/C、1987年のBemanというカーボンアローの出現と、1987年のグランドFITAを最初とするルール変更(正確にはそれまでのアーチェリー競技とは違う競技種目への移行)は、正しい努力、しなければならない努力を不要なもののように見えなくしてしまったのです。
 
 もし20ポンドで練習に励む初心者が、そのまま試合に出られるならどうでしょう。どれだけのアーチャーが辛い思いをして40ポンドの弓を使いますか。今、カーボンアローのせいで(お陰ではなく)、技術も能力もさほどの努力もなくても、そして30数ポンドでも矢は90mを飛んでしまうようになったのです。70mなど楽々です。ここにこそ指導者と競技者双方が正しい努力を怠り、ヘタクソになった原点があるのです。
 もしあなたの弓で90mが飛ばなければ、もっと強い弓を使えるようになる努力をするでしょう。もっと矢が飛ぶようになるための研究をするでしょう。そして飛ぶ道具を選ぶでしょう。どうしたら当たるか、勝てるかを考えるでしょう。
 今必要なのは、70mで的に乗るだけで一発勝負に賭ける前に、完璧に70mの X を捕らえるフォームと技術と道具を手にすることです。今の90mは昔の70m、そして届く届かないは70mのゴールドに偶然ではなく確実に意識して自分の技術と力で矢を運ぶことと同じなのです。 (つづく)

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