全日本アーチェリー連盟が悲願であったF.I.T.A.(世界アーチェリー連盟)に正式加盟するきっかけとなったのが、1967年 第24回アマースフォート(オランダ)世界選手権でした。この時、前身である全日本弓道連盟に登録する7人の日本代表の中に唯一 和弓でシューティングラインをまたぐ選手がいました。そしてこの時の和弓惨敗を契機として、洋弓(アーチェリー)が和弓から独立、1969年に全日本アーチェリー連盟としてF.I.T.A.に正式加盟したのです。それ以来、世界の頂点を目指しがんばってきた日本のアーチェリーです。

 

 
1967年 第24回アマースフォート世界選手権
(右から 6人目の選手が和弓で参加した宮田選手

 

 日本のアーチェリーの原点は、当時の日本楽器(現 ヤマハ)社長 川上源一 がアメリカから持ち帰った一本の弓でした。その後、日本各地には協会が設立され現在の基礎が築かれたのです。そして1976年モントリオールオリンピック 個人シルバーメダル、1977年世界ターゲット選手権 個人準優勝、1978年世界フィールド選手権 個人優勝。日本のアーチェリーは1970年代後半 世界への階段を一気に駆け登っていきました。
 しかし、そんな世界を征する勢いであった日本のアーチェリーも、その後徐々に世界との距離を離していきます。1997年、上村選手(奈良)の久々の世界選手権個人4位入賞の快挙があったものの、それでも競技人口は減少の一途をたどり、各地のフィールドアーチェリー場やターゲットレンジは閉鎖に追い込まれています。
 この原因や背景はいろいろあるのですが、最大の原因は18歳人口の急減です。1982年の205万人をピークに日本の若者の数は減少し、昨年は162万人、そして今年は155万人まで減少します。この減少はとどまるところを知らず、2000年には151万人、2010年には121万人まで若者の数は減少を続けます。敗戦の翌年生まれた子供が18歳を迎えた1964年が140万人であったことを考えると、この数字の意味することは理解できるはずです。たしかに大学、短大への進学率は増加し国公立を中心に学連のなかには健闘している学校もありました。しかし、すでに短期大学は定員割れは当たり前で、学校を選ばなければ2007年からは大学全入の時代を迎えています。それを思えば、登録人口減少やリーグ戦を戦えないクラブや廃部同然の学校が目立つのは当たり前の結果です。
 しかし実はこれが最大の要因ではありません。追い討ちをかけるのが、弓具の高額化です。ハイテク素材を駆使した弓や矢はどんどん高級高額化し、市場の低迷と縮小は表裏一体となり悪循環を繰り返しています。アーチェリーバブルのなれの果て・・・・です。
 これから抜け出すのは容易なことではありません。正直、世界制覇はサイコロを振るギャンブルと同じです。
 では、救いはないのでしょうか。ないのかもしれません・・・。今の競技人口は1970年代を超えるものではありません。もう昔のような大きな繁栄や栄光はないでしょう。しかし、40年数前も同じ状況だったのです。誰も日本でアーチェリーが普及発展するなどとは夢にも想わず毎日射ち続けていたのです。そこにあったのはアーチェリーを愛好する、ひとりひとりの情熱と草の根の努力です。アーチェリーとはそういうスポーツだったはずです。
 今、必要なのはちょうど40数年前にあったような地道な努力と情熱を、アーチャーひとりひとりが傾けることしかないでしょう。今こそ何かを始める時です。みんなで力を合わせて、がんばりましょう!!  大好きな、大好きなアーチェリーのために。

 

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