川上 源一
1912年1月30日 – 2002年5月25日
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- 川上 源一
1912年1月30日 – 2002年5月25日 1月7日
日本のアーチェリーは、ここから始まりました。
1956(昭和31)年、日本楽器(現・ヤマハ株式会社)の社内にいくつかの運動クラブができ、そのうちの一つが洋弓部でした。学生時代に弓道部にいた「川上源一」社長(ヤマハ発動機社長も兼務)は自ら洋弓部に参加。当時国内では竹製の洋弓しかなかったのが、アメリカ市場を視察した際に、ハワード・ヒルからもらった弓を持ち帰ったことから、日本のアーチェリーが始まりました。
その弓はFRPという新素材で作られ、よくしなり、速く飛び、命中精度の高さに驚き、すっかり洋弓に惚れ込み、「これを日本で普及したい」とすぐにFRP研究の指示が出されました。しかし当時ガラス繊維は国内で生産は始まっていたものの、アーチェリーに合ったものは未知数であり、エポキシ樹脂はまだ国産化されていませんでした。そこで日本楽器天竜工場の片隅でFRP成形技術の開発がスタートしました。原材料メーカーの協力を仰ぎ、化学専攻の若い技術者を採用し、経験豊かな船舶技術者をスカウト、FRP技術を学ぶのと併せて、ピアノで培った木工技術によって1958年、日本初のFRP製アーチェリーが誕生したのです。
そして翌年には早くも日本アーチェリー協会が発足し、初代会長に川上社長が就任。1960年にはFRP製造のノウハウが確立し、1961年からは本場アメリカやヨーロッパへのアーチェリーの輸出が始まりました。
「Citation」という弓を覚えていますか?! 源一さんが、この名前にしなさいと言ったのです。
「弓の精度を1%上げれば1440点の1%、14点の記録向上が望める」。「日本人が日本の弓で世界一になるための道具を作りなさい」。鶴の一声でした。
1972年、HOYTが初のテイクダウンプロトタイプ「TD1」で世界を制覇してから、世界がテイクダウンに変わるのに時間は掛かりませんでした。それに呼応するように、ヤマハも競技用最高モデルの「Ytsl」を1974年にリリースします。その開発、改良の先端実験場が「Citation」でした。
「Citation」はその後1976年から、受注生産の限定モデルとして一般にも販売されます。希望者は神奈川県日吉のサイテーションルームまで足を運び、シューティングマシンと共に実射や測定を行ったうえで、自分だけの弓を作ってもらうのです。
源一さんにとってアーチェリーは道楽でした。「日本の弓で日本のアーチャーが世界の頂点に立つ」ことが源一さんの夢だったのです。だからこそ採算ベースに乗らない「アーチェリー部門」だけが最後まで残りました。ヤマハからスキーが、テニスが、そしてゴルフを除くすべてのスポーツ部門が撤退しても、2002年に源一さんが亡くなるまで、アーチェリーは撤退を免れたのです。
源一さんの夢には、音楽と同じくらいに「エピキュリアン」がありました。「ただ飲み食べ騒ぐのではなく、自然の中で心を開放する豊かな時間を」求めました。そこで作られたのが合歓の郷であり、つま恋であり、厳選された数々のヤマハのレクレーション施設です。
最初1967年に合歓の郷がオープン、1970年に世界チャンピオンのハーディー・ワードを呼んだ時、ここでデモンストレーションの大会を開きました。その後も、何度も選考会や大会が行われています。
1974年に開業した掛川の「つま恋」より遥か昔です。源一さんは「合歓の郷」のノウハウを生かして「つま恋」を作りました。
当時、アーチェリーに限らず、すべてのスポーツにおいて「アマチュア」という言葉が厳格に存在していました。そんな時代だからこそ、源一さん(ヤマハ)と全日本アーチェリー連盟が対立するのは必然でした。
そこで源一さんは全ア連の公認を取らず、独自のアーチェリー大会を立ち上げます。それが「つま恋カップ」の前身の「ヤマハカップ」の、そのまた前身にあたる「川上杯」です。
最初の試合は1967年に弓を生産していた「日本楽器西山工場」のグランドからスタートし、「日本楽器天竜工場」に移り、そして第9回大会から前年オープンした「つま恋」で開催されるようになります。
ちなみに源一さんと全ア連の関係が修復され、「ヤマハカップ」と改名されたのは1987年の大会からです。
最初の川上杯も、「日本で最高の大会にしなさい」との一言、世界選手権や全米選手権を参考に、そして海外からも多くの世界チャンピオンが招待されました。運営においても、採点方式やレセプション開催など最先端最新鋭の理想の大会が「つま恋」で行われてきたのです。また大会だけでなく、レベルアップキャンプやレディースキャンプなど多くの合宿や講習会も実施しました。
つま恋が「聖地」と呼ばれるのは、単にそこに試合会場があるからだけではないのです。そこにアーチャーの夢と理想の歴史があるからです。
2002年、ヤマハがアーチェリーから完全撤退。すでにヤマハを離れていた合歓の郷も2015年に売却。そして2016年、ついに聖地までもが失われたのです。
日本人なら、このアーチェリーの歴史と原点を忘れてはいけません。
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