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1976年 全日本選手権

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万博レンジ

特に関西のアーチャーには懐かしい場所だと思いませんか。「大阪万博レンジ」です。何年かは忘れましたが、大阪万博の後、レンジオープンの時にデモンストレーションの式典に呼ばれて射った覚えがあります。その後何度か練習させてもらったのですが、1996年頃になくなって今のインドアテニスコートに変わったようです。

そんな万博レンジで1976年全日本選手権の後、来日したマッキニー、べドナーと一緒にデモンストレーションシュートを行いました。

当時、1970年代は厳格なアマチュア規定の元、日本でもアメリカであっても選手はプロでない限り一銭たりとも受け取ることはできず、ステッカー1枚貼って広告することもできず、ステッカー1枚でアマチュア規定に抵触した時代でした。それは本当です。
そんな中、例えば「招待」で日本に来ることは双方の連盟間で承諾されていれば問題はありませんでした。余談ですが、この1976年の2人の来日について、ダレル・ペイスは全米選手権で優勝したにもかかわらず、優勝した自分を招待しなかったことに、後日NAA(全米アーチェリー連盟)に抗議の文書を送っています。(あーーみんな若かったし、それだけのプライドがあったのですよ。)
ではなぜマッキニーとべドナーが日本に来たかといえば、ヤマハの招待(もちろん全ア連は了解済みです)であり、2人がヤマハの弓を使っていたからにほかなりません。
ではヤマハの弓を使う彼らは、アマチュア規定に抵触しないのか?? これは多くのアメリカのトップ選手や世界チャンピオンがHOYTの弓を使うのが、その弓が優れていたことに加えて、ホイットおじさんを崇拝し愛していたからです。そんな時、弓をもらうことは許されました。というか、表向きはその道具を「借りて」いたのです。使わなければ返すし、もらった(金品の授受)のではないのです。
日本国内でもこの後、ヤマハの台頭やその道具のテストのために「選手対策」が行われますが、その時選手は「借用書」に署名をして使わせてもらったのです。当然使わなくなれば道具は返却するのです。選手は一切金品を受け取ってはいません。なぜなら、我々は「アマチュア」だったからです。
こんなアマチュアがプロフェッショナルでないアマチュアに変わっていくのは、1980年代後半からです。

この後、2人は大阪府連や京都府連の歓迎会にも参加し、その後は一緒に京都観光を楽しんで、帰国の途に就きました。

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