夜明け前 

1967年 Amersfoort, Holland 第24回世界選手権大会

例えば1979年、Darrell PaceのダブルFITAラウンドでの最後の世界記録「1341点」の価値を、3射や6射のサイコロを転がすようなアーチェリーしか知らない、最近のアーチャーには理解できないでしょう。これと同じくらいに素晴らしい点数を、1967年に射ったアーチャーがいるのです。それは世界記録でも日本記録でもなく、世界最下位の点数です。しかしそれは、1969年全日本アーチェリー連盟が発足する前夜、きっかけとなった洋弓、和弓の垣根を越えたアスリートの話です。

宮田純治

日本代表として和弓で初めて参加した、宮田純治 選手です。
この時、日本からは8名のエントリー枠の中で男子7名の選手が参加しています。彼らは「全日本弓道連盟」に登録された日本代表でした。実は当時、1956(昭和31)年に発足した「日本アーチェリー協会」なる組織はあったのですが、実際には先の全日本弓道連盟が日本におけるアーチェリー(和弓に対する洋弓)を統括していました。
そして1958(昭和33)年にはFITA(国際アーチェリー連盟-現在のWA)への加盟申請を行い、認められることで名実ともに世界における日本のアーチェリーを統括する唯一の団体となっていました。
その背景には1964(昭和39)年に行われる東京オリンピックで、アーチェリーが正式種目として実施されるというIOC決定がありました。全日本弓道連盟はFITA正式加盟の年に「国際部」を設け、東京オリンピックでの和弓の勝利を目指し、信じてアーチェリーの調査研究を行っていました。しかし実際にはエントリー国数が少なく東京での実施は見送られ、オリンピックでのアーチェリー競技の復活は1972(昭和47)年ミュンヘンまで先送りされます。
そんな中で1959(昭和34)年には「全日本学生アーチェリー連盟」が発足、1966(昭和41)年にはその延長線上に「全日本アーチェリー連盟」が結成されます。

オリンピック参加がなくなる一方で、国内におけるアーチェリーの隆盛は双方に対立を生み、感情論にまで発展します。FITAへの加盟権譲渡を全日本アーチェリー連盟は全日本弓道連盟に迫るなか、この大会のエントリーを前にして双方に話し合いがもたれます。
そして歴史に残るこの写真となるのです。当初、全日本弓道連盟はより多くの和弓選手の参加を望んだようですが、結局は1名の参加となります。そして、結果は男子個人129名参加中、最下位の129位。

この和弓惨敗と国内のアーチェリー人口拡大を背景に、1968(昭和43)年全日本弓道連盟はFITA加盟権を全日本アーチェリー連盟に譲渡することを正式決定。翌1969(昭和44)年にFITAは全日本アーチェリー連盟を日本におけるアーチェリーの統括組織とし、正式加盟を認め現在に至るのです。

和弓から学ぶ蘊蓄のある先達の教え。

アサヒ弓具の小沼さんにお世話になりました。

雑誌アーチェリー表4

こそっと和弓初体験

1967-1969年、和弓と洋弓の間に何があったのか。詳しくは、

最後に「秘伝」の記事がご覧になれます。

ぜひお読みください。

月刊秘伝