1974年、源一っぁんの鶴の一声で、三重の「合歓の郷」のノウハウを生かしできた「つま恋」。合歓の郷は1970年に世界チャンピオンのハーディー・ワードを呼んで、デモンストレーション大会を開催。1967年から西山工場で始めた「川上杯」(1987年「ヤマハカップ」と改名)を、1975年からつま恋に移して開催。
そんなヤマハも2002年にアーチェリーから完全撤退。2015年「合歓の郷」売却。「つま恋」は2016年売却。そして隠れた聖地「中沢のレンジ」もついに2016年に幕を閉じたのです。ぜひ8分ご覧ください。
ちなみに、上の写真は源一っぁんです。
日本楽器製造株式会社
(現ヤマハ株式会社)
1956(昭和31)年、日本楽器の社内にいくつかの運動クラブができ、そのうちの一つが洋弓部でした。学生時代に弓道部にいた「川上源一」社長(ヤマハ発動機社長も兼務)は自ら洋弓部に参加。当時国内では竹製の洋弓しかなかったのが、アメリカ市場を視察した際に、ハワード・ヒルからもらった一本の弓を持ち帰ったことから、日本のアーチェリーが始まりました。
- 「アーチェリーの聖地」営業終了
- 伊豆田さん、ありがとうございました。
- 有弓休暇(48)ちょっと「つま恋」
- 有弓休暇(52)「マスターズ大会」
夜明け前
日本が初めて世界選手権に参加したのは、1961(昭和36)年オスロ大会。そして1963年ヘルシンキ大会にも選手を送りましたが、1965年スウェーデン大会は不参加でした。これらは所属は「全日本弓道連盟」ですが、すべてアーチェリー(洋弓)の選手が参加していました。
そして、1967年アメルスフォールト大会は全日本弓道連盟最後の大会となり、次回1969年(昭和44年)バレーフォージ大会からは「全日本アーチェリー連盟」として、初めて選手を送りました。
この1969年の夜明けを前に、和弓と洋弓の間には想像も及ばない歴史があってのですが、それを象徴する出来事が、1967年大会で初めて日本弓道を代表してひとりの選手が和弓でアーチェリー世界選手権に参加したことでした。