Take Down Bow
1972年ミュンヘンオリンピックでジョン・ウイリアムスとドリーン・ウイルバーは「Hoyt TD1プロトタイプ」を使い、男女共にゴールドメダルを獲得しますが(オリンピックに団体競技はありません)、ジョンはプロに転向し翌年のグルノーブル世界選手権に出場しませんでした。その結果グルノーブルでアメリカチームは、女子個人と男子団体のゴールドメダルを最高に、男子個人はブロンズ、女子団体はシルバーメダルに終わります。
アメリカチームはこの大会でもオリンピック同様、全員がテイクダウンボウを使用していましたが、日本を含めほぼすべての国のアーチャーは、まだ木製ワンピースボウを使用していました。
1st. Linda A. Myers “Black Widow T-1200”
(左から)
6th. Edwin M. Eliason “Bear Custom Viking”(Wood)
2nd. Stephen Lieberman “Bear Victor Viking”
23rd. Darrel 0. Pace “Hoyt TD1”
15th. Larry Smith “Wing Presentation II” (Wood)
弓が「ワンピース」から「テイクダウン」に変わるこの過渡期において、確かにHoytは男子個人で世界記録によって連勝を続けるのですが、アメリカチーム全員が必ずHoytを使っているわけではありません。そして、競技用メーカーがHoytしかなかったのでもありません。ハンティングという巨大な市場を背景に、アメリカには想像を超える数の弓メーカーがあり、それらは1950年代から切磋琢磨していました。
この結果を見ても分かるように、「Bear」「Wing」「Black Widow」などのメーカーは、「Hoyt」同様に数々のタイトルを獲得し、規模でいえばHoytを上回るメーカーでした。
しかしこの過渡期は、メーカーに大きな選択を迫ります。例えばここにあるメーカーはいずれも「金属ハンドル」のテイクダウンへの移行を果たすのですが、当時の金属ハンドルとは「ダイキャスト製法」を指すものです。そのためには技術力や設備だけでなく、「金型」を必要としました。当然大きな設備投資が不可欠です。
この段階で多くのメーカーは90m先の紙の的を射つ競技を捨て、ハンティングを選びました。オリンピックに採用されたとはいえ、その市場規模はハンティング全体の数%にも満たないものでした。
そしてこれと並行して革命が起こります。1969年に「滑車の付いた弓」の特許が認められたのです。強い弓で紙を射つのでなく、熊や鹿をもっと楽をして狙い、射つ方法が発明されたわけです。この時、このニッチ市場で生きることを求めたのは、唯一ホイットおじさんとヤマハだけであり、Hoytは1980年代にEASTONに買収されるまではコンパウンドボウを作りませんでした。
世界チャンピオンになったソ連のシドルークとフィンランドのラーソネンです。(後ろは確か弟ラーソネン)
ミュンヘンオリンピックでシドルークは7位。ラーソネンはブロンズメダルで、1981年プンターラ世界選手権では世界チャンピオンに輝いています。
この写真を見るだけでも、いかに世の中がワンピースボウの時代であったかが分かると思います。兄ラーソネンこそ「Hoyt 5pm」ですが、すいません弟ラーソネンとシドルークの弓が何だか知りません。ベルギー製の「Green Horn」かな? ちなみに当時「ソ連」は弓具も国から支給されていた時代でした。
そんな中で、このあと「YAMAHA」が世界参戦することで、一気にテイクダウンボウと最新の弓具が世界へと広がります。